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宗旨

本門法華宗沿革

宗祖は日蓮大聖人で、宗祖の正意は法華経本門八品にあるとして、八品信仰を再興唱導したのが門祖日隆聖人(1385~1464)で、その法流を継承するのがわが本門法華宗である。宗名も開祖自ら本門法華宗と称していた。

明治5年(1872)大教院が設けられて宗教界を統轄することになり、各宗に管長を置き、宗内を取締まったが、明治7年(1874)日蓮宗内の勝劣派にも管長が認められ宗政上日蓮宗と勝劣派の分立がなされた。

明治9年(1876)日蓮門下の一致勝劣二派制がくずれ、八品派が独立して「日蓮宗八品派」と称し、京都妙蓮寺、京都本能寺、尼崎本興寺、岡ノ宮光長寺、鷲ノ巣鷲山寺を五大本山とした。
明治31年(1898)従来の日蓮宗八品派を本門法華宗と改称した。

昭和16年(1941)本門法華宗と法華宗(本成寺派)、本妙法華宗(本隆寺派)の三派が合同して「法華宗」を形成した。
昭和26年(1951)「宗教法人法」の施行により、昭和27年(1952)には法華宗が解体して法華宗(本門流)、法華宗(陣門流)、法華宗(真門流)の三法人となったが、民主的宗団の結成を目指す有志が大本山妙蓮寺を中心として、昭和27年(1952)旧本門法華宗に復元し、文部省の認証を受けて宗教法人「本門法華宗」を公称し、現在に至っている。

大本山妙蓮寺沿革

日蓮大聖人より帝都弘通の遺命を受けた日像聖人が、永仁2年(1294)に柳酒屋仲興の帰依により、邸内に一宇を建立したのに創まり、初めは妙法蓮華寺と称した。

その後廃寺の運命にあったが、応永年間(1420頃)日慶上人によって再興され、卯木山妙蓮寺と号した。永享年間(1440頃)に寺を堀川四条に移し、宝徳元年(1449)伏見宮家と関係深い妙皇寺第八世を別当職に迎えてから、皇族及び公武顕要の人々の参詣が多くなり、又、日忠上人は学室道輪寺を創立して本化教学の道場を開き、当寺の法運は隆昌を極めた。

以来京都の日蓮門下21本山の雄として発展したが、天文5年(1536)比叡山の山法師、他宗の僧俗等の襲撃に遭い、堂塔は悉く灰燼に帰し堺の法華寺に立ち退いた。

天文11年(1542)帰洛の勅許を得て大宮西小路に復興し、更に天正15年(1587)豊臣秀吉の聚楽第造営に際して現在地に替地した。当時は七堂伽藍が立ち並び、塔頭27坊を有していた。

更に天明8年(1788)洛中の大火に遭ったが、幸い宝蔵、鐘楼は火災を免れ、現在数多くの名墨名画を所蔵している。翌寛政元年(1789)より漸次復興に着手して諸堂を完備した。なお、昭和27年(1952)に信仰を中心にした民主的宗門を打建てるべく、同志と共に本門法華宗に復元し、諸堂の新築や修理を行うと共に、方丈の庭園を整備して面目を一新し、現在に至っている。塔頭は八ヶ院あり。

妙皇寺沿革

文和3年(1354)
妙蓮寺第二祖大覚大僧正によって開山される。大僧正自ら「鷲峰山妙皇寺」の寺山号を授与される。
明応時代(1492)
大本山妙蓮寺第八祖日応僧正が、6年にわたり近隣を化益して当山の基礎を確立された。日応僧正は第一中興開基と称す。
第十二世日東上人は、能書の誉れ高く、今になお「東日東上人」の称が聞かれる。大本山妙蓮寺第十七祖に晋山される。
正保元年(1644)
第十三世日便上人は、真浄山大法寺を開創する。
寛文12年(1672)
第十四世日正上人により、本堂・三光堂を再建する。日正上人は、第二中興と称す。
延享2年(1745)
第十九世日貞上人により、祖師堂が建立される。
安政3年(1856)
第二十八世日持上人により、現存の本堂が再建される。日持上人は第三中興と称する。
昭和22年(1947)   
住山50年に及ぶ第三十世妙行院日皎上人は、大本山妙蓮寺の第六十五世として晋山された。上人は本堂内部の営繕・荘厳の完備、庫裡の新築、「永代法会制度」の確立等を行い、第四中興と称する。
昭和32年(1957) 
第三十一世但行院日幢上人により、位牌堂を建立。
同38年 第一新墓地の造成、山号碑等の建立がなされる。
同45年 祖師堂・三光堂の修復がなされる。
同47年 第二新墓地の造成、境内の拡張、駐車場の完備がされる。
同50年 鐘楼が建立される。
同53年 本堂内外の大修復、境内外の整備がされる。
同60年 位牌堂の内部改修、荘厳仏具の完備、納骨堂の新設がなされる。
同61年 日幢上人は、大本山第九十五世として晋山され、当山第五中興号が贈られた。
平成元年
現住により書院の新築、台風の被災による鐘楼の再建、駐車場の拡張が行われる。
平成9年 
新時代に相応しい会館・庫裡の建設、境内外整備を行って寺観を一新。
平成15年 
墓地希望者の増加にあわせて、1500m2の墓地造成と附属する施設の建設、整備を行い、墓地の拡張を完成する。

妙皇寺歴代住職

火災等で記録が焼失した年代があります。

当山 本山 僧名 備考
開基 第二世 大覚大僧正 妙実 貞治3年(1364)遷化
第二世     日理  
第三世 第八世   日応 伏見宮出身 日応僧正
永正5年(1508)遷化
第四世     日清  
第五世     日雅  
第六世   圓浄院 日円  
第七世     日持  
第八世     日継  
第九世     日栄(日善)  
第十世   本覚院 日教 承応3年(1654)遷化
第十一世   浄源院 日善  
第十二世 第十七世 大法院 日東 元禄3年(1690)遷化
第十三世   本法院 日便 正保4年(1647)遷化
第十四世   寿量院 日正 延宝5年(1677)遷化
第十五世   永勝院 日宝 享保8年(1723)遷化
第十六世   本照院 日通  
第十七世   信了院 日堯 宝暦10年(1760)遷化
第十八世   信行院 日恵 元文2年(1736)遷化
第十九世   安立院 日貞 宝暦12年(1762)遷化
第二十世   事成院 日量 安永2年(1773)遷化
第二十一世   仁譲院 日進 明和6年(1769)遷化
第二十二世   守善院 日信 寛政7年(1795)遷化
第二十三世   寛善院 日成 天明6年(1786)遷化
第二十四世   寛成院 日善 天明8年(1788)遷化
第二十五世   速成院 日就 文化12年(1815)遷化
第二十六世   真要院 日祥 天保2年(1831)遷化
第二十七世   正行院 日近 嘉永2年(1849)遷化
第二十八世   真行院 日持 明治5年(1872)遷化
第二十九世   東行院 日輝 明治38年(1905)遷化
第三十世 第六十五世 妙行院 日皎 昭和41年(1966)遷化
第三十一世 第九十五世 但行院 日幢 平成16年(2004)遷化
第三十二世     日但 昭和61年就任
第三十三世     宏治 令和3年就任

開基大覚大僧正

今日、「大覚大僧正」と尊称されています、妙実聖人(1297~1364)は、日蓮大聖人のご遺命を奉じられた日像聖人(1269~1342)の直弟子であります。聖人は、日像聖人の弟子となられた時に、「妙実」という名を授けられました。また、嵯峨の大覚寺におられたと伝えられます関係からか、衆人から「大覚聖人」と呼称されたお方であります。

当時の京都は、日像聖人の伝道活動によって、次第に法華信仰が洛中に浸透していましたが、その基盤はまだ確かなものとは言い難い状況でありました。そのような中で妙実聖人は、皇室や公武との接近を図られながら、弘教活動に励まれました。その結果、京都における法華経信仰の教勢は一段と拡大すると共に、揺るぎないものとなりました。また、聖人の活動は洛中だけに止まることなく、その視点を近畿・山陽に向けられました。特に当時、法華信仰の未開の地でありました山陽(現在の岡山・広島県)の布教を目指されて、自ら各地に弘教活動を展開され、法華の道場数十ヵ寺を開基される足跡を遺されています。

その後、京都の日蓮門下における各本山の内、わが大本山妙蓮寺第二世をはじめ、妙顕寺、妙覚寺、立本寺のそれぞれ第二世に歴せられるなど、名実ともに京都・山陽地方に於ける法華経信仰の総帥とも言える尊崇をあつめられました。しかし一方では、法華経弘通者の宿命とも言える、数多の苦難を被られた忍難のご一代でもあったのです。

こうした波乱に富んだ聖人のご生涯は、数々の伝説と共に、そのご功績が今なお語り継がれて、世に「大覚大僧正」と尊称されるようになったのです。今回は、その妙実聖人の足跡を辿ってみたいと思います。

生い立ち

大覚妙実聖人は、永仁五年(1297)に誕生されましたが、聖人の出自については、古来から幾多の説が提起されながらも、確かな素性は今日に及んでも定まっていません。
諸説を挙げてみますと、
(1)近衛家に縁故のある出自とする説。
(2)近衛経忠(このえつねただ)の子とする説。
(3)後醍醐天皇の第三王子である恒性親王とする説。
これらの中で、研究の進んだ現在では、「近衛家縁故のご出身である」とする説が通説となっています。

聖人は、幼名を月光丸、羅ご羅(らごら・ごは目へんに候)丸といわれますが、俗説では、近衛経忠の子として誕生された後、後醍醐天皇の養子となられて、嵯峨の大覚寺(真言宗大覚寺派の大本山)に入られ、准三后昭慶門院憙志(じゅんさんこうしょうけいもんいんきし)の方を母代わりとして、この寺奥深くに育てられたと伝えられます。その後、正中元年六月後宇多天皇が五十八歳で崩御されると、大覚寺主である叔父、寛尊法親王の弟子となられ出家されました。

このような高貴な身分に生まれられた聖人は、当時の習慣として多くの家来や、従僧と共に、昼夜に及んで学問や武技に励まれました。しかし、学問が進むにつれて、ある疑問を抱かれるようになられました。
「人は誰しも死を迎える。では死後の世界とは如何なものか、小乗の経典に依れば地獄と極楽とがある、この世で良いことをした者は極楽に行き、悪いことをした者は地獄へ行かねばならぬのか。御父(おんちち)天皇は十善の天子と貴ばれながら、なぜ戦をせねばならなかったのか、なぜ人を罰せねばならぬのか、そして、死去された今は地獄へ行かれたのか、極楽へ在られるのか、何とかしてそれが知りたい。」と、御孝心深い聖人は、この疑念を側近の従僧、智覚・正覚・祐存等に尋ねますが満足のいく返事は返ってきませんでした。そこで、学問の師で篤学の誉れ高い性勝和尚に尋ねられますと、「それが真言密教の秘であります、そのうちに悟られるでしょう。」という答えでありました。聖人はこの疑問を解決しようと、さらに学問に打ち込まれました。しかし、その疑問は日ごとに深まるばかりで、解決のきざしさえ見出せなかったのであります。

日像聖人との出会い

そうしたある日、聖人が、二、三の従者を連れて洛中北野天満宮の辺りを通られますと、一人の僧が大衆を前にして一心に説法をしていました。手には法華経を持ち、朗々としたその声に三人は足を止められました。聖人は説法者の気高い姿に圧倒されながらも、その言葉にじっと聞き入られました。そのうちに日頃より聖人が求めてこられた疑念がだんだんと明るくなり、霧がはれていくような感があったのです。やがて、座の説法を終えた僧は、声高らかにお題目を唱えると、厳かに合掌し、その場を後にしました。これが「日像聖人」との最初の出会いとなったのであります。以後このご縁が、聖人を真言密教から、法華経信仰へと大きく転心させ、後世、数々の功績が語り継がれる大覚大僧正・妙実聖人の第一歩となったのであります。この時、正和二年(1313)大覚聖人は十七歳、日像聖人より、名を「妙実」と授けられました。

布教活動の足跡

三十歳代中頃になられた聖人は布教伝道を近畿・山陽にすすめましたが、特に山陽地方には備前・備中・備後に大きな教化の実をあげられました。この過程で注目されることは備前松田氏の入信です。この出来事は大覚聖人にとって、大きな影響をもたらすことになりました。

聖人が備前津島で盛んに法陣をはられた時、付近の真言宗福輪寺の良遊と問答の結果、論伏させられた良遊は、一山の宗徒と共に改宗し、聖人に帰依しました。これを聞いた矢崎登美山城(備前の豪族である松田氏の城)主の松田元喬は真言の碩学を集め、聖人と城中で法論させましたが、ことごとく論破されたため帰依するに至りました。そこで元喬は、その父の元国、及び元喬の子元泰も、共々に聖人に帰依し福輪寺を妙善寺と改め、他にも数ヵ寺を建立して諸人に法華経信仰をすすめられました。その後、松田氏を最大の外護者としてこの地方は「備前法華」と呼ばれるようになったのです。

聖人が山陽地方を弘通されたのは元弘の末(1333)から康永元年(1342)にかけての十年前後と見られます。備前・備中・備後には、今もなお二十余ヵ寺が開山を大覚大僧正として仰ぎ、これらの寺々には当宗の寺院の数ヵ寺も含まれています。

妙顕寺主となり公式と近接

興国三年(1342)、聖人は日像聖人より御遺言と共に讓状を受けられ、妙顕寺を付属されました。その当時は、南北朝内乱のさなかで、足利幕府の基礎も固まっていませんでした。このような治安の中で聖人は妙顕寺において幕府の要請に応え、天下静謐のために法華経を転読して祈祷を行いました。これによって妙顕寺は幕府の強固な保護を受けるようになり、さらに聖人は、皇室や公武に対しても、急速な接近をはかられましたので教勢も一段と強固なものになりました。ここに名実ともに法華弘通、四海唱導の重鎮となられたのです。その後、延文元年、聖人は悟るところがあり、妙顕寺を朗源聖人に譲り、自らは、弟子等と共に山崎の辺り西の岡(現在の京都府乙調郡西岡村)に草庵を結ばれました。

勅宣請雨の祈願と三菩薩号の勅賜

延文三年(1358)、聖人六十一歳の時、京の都は数ヶ月間、一滴の雨も降らず草木は枯れ、牛馬は行き絶えだえの始末で、幕府は四方の神社仏閣に御使をたて、請雨の祈願をおこないましたが、しかし、その効もなく半滴の雨も降らず、天皇自ら神泉苑にて三十七日の請雨の法を祈念される有様でした。こうした中で、聖人の住む草庵に勅使の物々しい行列が到着しました。勅宣を断ることはできず、聖人は最後のご奉公と、法華経が最も勝れていることを天下に示すべき時と、側近を四方に走らせ幾百の僧侶を伴って、桂川の辺りに祭壇を設けて十界のご本尊をかかげ、祈願に入られました。そうすると法華経八巻の一軸がいまだ終わらないうちに、西山の上あたりから黒雲が次第に広がり、京の都は四方万民草木ことごとく妙法の雨に潤されたのです。

この功績によって天皇は、日蓮大聖人に「大菩薩号」を、日朗・日像両聖人に「菩薩号」を授け、大覚妙実聖人も「大僧正」の位に叙されたのです。爾来、大覚妙実聖人は「大覚大僧正」と尊称されるようになり、今日に及んでいます。しかし後に、このことが因となって、法華宗徒への大法難が降りかかることになります。

また、この時のご本尊は「慈雨の御曼陀羅」と称されて、今も大本山妙蓮寺に格護されています。

ご遺戒とご終焉

貞治三年(1364)、聖人は朗源聖人に妙顕寺主を譲られ、その際に、長文の書簡を送られています。そこには、恩師日像聖人が親しく宗祖日蓮大菩薩よりたまわりました御教えの数々や、今後の法華宗徒への指示を事細かに記されてありました。そしてまもなく聖人は、同、四月三日、六十八歳をもってご遷化されたのです。以後、聖人のご命日には、四月三日にちなんで「シグサン*」と称してご遺徳が偲ばれています。

文章 白山宏治

*四月三日の読み「しぐあつさんにち」が「しぐさん」と呼称されるようになったと推測されます。

参考文献
「大覚大僧正 日隆上人略伝」 大本山妙蓮寺出版部
「大覚大僧正」 夙 外生
「日本仏教史 第五巻」 辻 善之助
「日蓮教団全史(上)」 立正大学日蓮教学研究所
「京都日蓮教団門流史の研究」 糸久 宝賢
「日蓮宗事典」 日蓮宗
「日蓮辞典」 宮崎 英修
「法華宗年表」 法華宗本門流出版部